明日から早起きするぞ

人生わやぱりぴ。

10年間

いろいろ思うことがあって、でも心の中にとどめておくと忘れそうで、吐き出したくて、でも80人の前にぽっと書くことでもなくてひとりに対して話すにしては重たすぎる気がするから、ブログに書いたら気になる人しか見にこないしいいかなーと思ったのでブログに書きます。



私は今葬儀場にいます。


祖母が亡くなりました。24日の午後3時でした。ちょうどその時私は岡山市にいました。母から危篤だと電話を受けたのですが実はその時間にはもう亡くなっていたことになります。


電車の中で座って落ち着いて一息ついたその時涙がこぼれたのをきっかけにしゃくりあげてしまいしばらく止まらなくて周りの乗客には迷惑をかけました……。(もう19だし、そういう泣き方は直さなくてはいけないと思う)

児島駅からはタクシーで病院に向かいました。ちょうど病院についた時原付を降りる母がいたので合流。今来たのかと聞くと「ばあちゃんの新しいパジャマを買いに行っていた」と。母はもう既に一度病院に来た後でした。最期に間に合わなかったと泣いていました。少しタバコを吸うからという母を残してパジャマを持って病室に向かいました。

病室では看護婦さんたちが祖母に処置を施していて、妹が壁にもたれ下を向いていました。祖母の細い太股が見えて私はまた泣きました。看護婦さんにパジャマを渡して、着替えさせるというので病室の外に出ました。

ちょうどその時母が上がってきて、妹を連れて下に降りました。私はまたひとりになったのでとりあえずトイレに行きました(我慢してた)

パジャマを着せ終わったとのことでまた病室に入りました。祖母とふたりきりです。自分にとってはいきなりの死、「ホントに?」という気持ちもありましたが、その体の冷たさに驚きました。そうしてまた、その体の細さにも驚きました。


話は10年前、私が9歳の時に戻りますが、スナックを営業していた祖母はいきなり脳卒中で倒れました。出血の詳しい位置などは覚えてないし専門知識もないためよくわかりません。それに加え私はまだ幼かったので詳しい話もほとんど聞いていません。

「ヤマを超えても一生植物人間」と言われていたのは覚えていますが、その言葉とは異なる結果になりました。右半身不随に加え喋れない食べられない、という状態ではありますが意識はあり笑ったり話を理解したりするところまでは回復し、母も一生懸命テレビを見せたり麻痺しているところのマッサージをしたり車椅子に乗せて病院を散歩させたり筆談をしようとしたり50音表を用いてのコミュニケーションを試したりしたのですが

ある日母が筆談を試みたときに死にたいと書いてからはそれもやめてしまいました。

それからの祖母はテレビを見ることもなくなり外も見たがらず、ベッドの上のみで過ごすようになりました。

祖母が倒れる前、まだ元気だった頃、私はかなり祖母が好きで、新しい父が怖かったことや夫婦喧嘩が怖かったことなどもあり毎週日曜は祖母宅に泊まるなどしていた記憶があります。また、私が生まれたばかりの頃などはもっと長い間一緒にいてたくさん可愛がって貰ったようです。

そんな元気で強いイメージの祖母からは変わってしまった祖母がどうしてもなんとなく怖くて、私は御見舞にはあまり行きたがりませんでした。ちなみに母にはあれだけかわいがってもらったのに薄情な孫だと言われました。

しかし私が高校3年の時、祖母は一度肺炎で危なくなり、その時は1週間くらい毎日病院に御見舞に行きました。学校にいるあいだも居なくなってしまうのでは、と思い怖くて授業を抜けて保健室にいたりもしました。

その後祖母は回復し命の危険はなくなり、それから私が大学に合格してその報告をしに行った後、また病院から足は遠のいてしまい、それを最後に御見舞に行くことはありませんでした。後悔しても遅いとはこのことだと思いました。まさか死ぬなんて、と思いました。


話は病室に戻ります。

ふとわたしは祖母のベッドを軽く揺らしました。反応せんかなぁという気持ちでした。しかしながらまあそんな事はなく、なんといえばいいのか、何の抵抗もなくされるがままに祖母は揺れるのです。当たり前ですがそれがどうしても辛くてまた泣きました。

その頃に妹が帰ってきて、しばらく沈黙でしたが私が「いきなりだったな」と話しかけると妹は悟ったように「まぁこの前ママが延命治療の話をしてたし今まで生かされとったんよ、お疲れ様よ」と言いました。

思い出してみれば酔った母が「もうばあちゃんがやばくなっても延命治療をしないと署名した」のようなことを言っていました。それにしても早いなあと思いましたが。

そうしてその時看護婦さんが病室に来て、私に封筒を渡しました。死亡診断書だというので妹と読みました、死因は急性肺炎、発病後約50日とのことでした。最期は咳き込むなど苦しむ様子はなく眠るように逝ったそうです。


その後叔母とその子、祖父が来てくれましたが、みんなやはり妹と同じことをいうのです。10年間苦しんだのだからお疲れ様だ、と。

確かにそうですし、10年間人としての尊厳とかそういう観点からすると叔母いわくプライドのかなり高い祖母ですし本当に死にたいの毎日だったのかも知れません。お疲れ様です。


祖母の話は最近になって母からたまに聞きますが幼少時も割と辛い時間を送ったそうですし成人してからもいろいろと大変だったようです。祖母の人生はどんなものだったのか、どう思いながら過ごしてきたのか、私には知ることができません。

まあなんといえばいいかわかりませんが辛かったぶん向こうでは楽しく過ごしてくれたらと思います。


またこれからも思うことが沢山あると思うのでその都度ブログを書こうと思います。