明日から早起きするぞ

人生わやぱりぴ。

パーソナルカラー診断をうけてきたよ

こんばんわっす!じゅりちです。お久しぶりですね。ブログ書くの1年ぶりくらいな気がしています。皆さんお元気でしたか?わたしはげんきです。(どうでもいいけど小学校の時の健康診断でふつうは「はい元気です」って答えるところ「はい現金です」とか「おれはキャッシュカード」とか言ってる人いたよね)


さて今日はですね、友達とパーソナルカラー診断を受けてきたのでその事について書こうと思います。

みなさんパーソナルカラー診断って知ってますか?まあ多分ここ読んでるくらいだから知ってるんだろうなーとは思いますが、まあざっくり言うと首元に布当ててどんな色が似合うかなーって見てくれるやつです。はい。最近よく雑誌やTwitterで見るブルベとかイエベとか言うやつですね。

ブルベは青みがかった色が似合う人で、イエベは黄色みのある色が似合う人を指すそうです。地肌の白さとか黄色さとかで判断するものではないらしいんですね。ここ重要。

なんでこんなこと言うかって、ここ読んでる人だからどうせ(決めつけていくスタイル)自己診断でブルベとかイエベとか言っちゃってるんでしょ~~~??


わたしもそうでした。


わたしは2016年の秋頃にパーソナルカラーについて知ってネットで自己診断したんですけど、その時は「秋」と出てずっとそれを信じてたんです。まあでも周りの人とかは言うんですよね、「じゅりちは肌が白いから秋はないでしょ」「ブルベっぽい」って。で、他人にやってもらうと「夏」が出る。正直なところブルベ夏こそ素晴らしい!みたいな風潮がある時期だったし、好きな芸能人も夏説があったし、他人から夏って言われるの嬉しかったんです。だから結構、内心では「ブルベかなーやっぱりww自分は思わないんだけど周りにブルベ夏っぽいってよく言われるwwwこないだBAさんに絡まれた時も気が付いたら意識無くてほっぺに某ラベンダー色チーク塗られてたしなwwwちなみに彼氏もブルベ冬っぽい(聞いてないw)」みたいに思ってて。だからわりとそういう色を好んで買ったりしてたのはあります。正直ね。

まあなんですけど、こう、なんとなーく自分が垢抜けないなあって思うところもあって。自分が似合う色ってほんとにわかんないんですよ、化粧品にしろ服にしろ。

それで、友人を誘ってパーソナルカラー診断を受けることにしました。


診断の流れ的には、まず初めにカウンセリング?みたいな感じで好きな色とか嫌いな色、何を悩んでるかを聞かれました。それから、ひとりずつ首元に布あてるやつやって、丁寧にシーズンとその中でも何色が似合うかっていうのをやってもらいました。その後、手持ちの化粧品などを見てもらったり、気になることを聞いたりしておしまいです。


まず初めに友人から。友人はイエべ秋で春もいけるかなー?っていう感じでした。傍から見てても結構布を当てた時に似合う色、合わない色がすごく出るのがわかりました。濃すぎる色はダメで、あとは青系は「忘れましょう(笑)」って言われてて三人で笑いました。


次に他己診断ブルベ夏イキリの私ですね。私はブルーベース系の色を当てると結構肌が白く見えるなーって感じでまあ悪くはないかな……って思ってましたが、春系の色を当てた時になんか自分がすっごく可愛らしく見えるのを感じました。えっまじか、ってなりましたね。「可愛い」っていうイメージはあまり自分にはそぐわないなあって思っていたので。どっちかと言うとクール系かな、みたいに思ってたんですよね。何言ってんだこいつって感じですね。そして意外なことに同じイエローベースでも秋の濁りのある色を当てた時に一気に顔色が暗くなって、マジか。おい。って思いました。自己診断ほんとにアテにならないってはっきりわかんだね。

結局色々当てていくとイエベ春で夏もまあいける(今回診断してくれたところではセカンドという言い方はしないみたいですが、他のところでは「1st春2nd夏」みたいな言い方をするらしいです)っていう感じでした。色を選ぶ時には澄んだ色とか透明感とかを大切にしたらいいよーって教えてもらいました。

あと冬の色もまあ……悪くはないかな……って感じだったんですが、それは色の強さ?が春と共通してるからだとか。昔は黒ばかり与えられてたっていう話もしたんですけど、先生からはまあ納得かな~って反応でした。


その後持ってる服や化粧品の話になったんですが、友人はわりと診断前からなんとなく自分に似合う色がわかっていた感じで「色選び上手ですねー」って言われてたんですが私の場合はもうどの色も夏や冬かなーって感じで苦笑いされました。色選び下手すぎワロタ。手持ちの化粧品も軒並み春を外してて草。

これだけでもうパーソナルカラー診断受けてほんとによかったなーと思いました。このままだと他己診ブルベイキリのまま、自分にドンピシャじゃない色を着て生きてたのかと思いますね。いや、ここでもしほかの人にブルベっぽいとか言われなかったら、、と思うと……。一番似合わない系統の色をずっと身につけていた可能性が……


わりと春の色って明るくて鮮やかで身につけるのがちょっと気後れしちゃうなあとは思うんですがこれから意識して選んでみようと思います。


まあというわけでパーソナルカラー診断うけてほんとに良かったよーって話と素人診断はガチでアテにならないって話でした。

はあ寂しさ~~

お久しぶりです。じゅりちです。
大学が始まったけど持ち前のサボりぐせで学校をサボりまくってます。なんなんこのサボリ癖は…
行かないけんとは思うんですが眠さや体のしんどさには負けてしまいます のわりにバイトは行く でもほんっとしんどくて今は週一でしか働いてません…

さて。

祖母の死から1ヶ月が過ぎました。

もちろん亡くなったと聞いた日、お通夜の日、お葬式の日はたくさんたくさん泣いたんですがその後は特に祖母が死んだ実感がわいてなかったのもあり、何も考えずに過ごしていたんですが…(入院していたしお見舞いも行ってなかったから「姿を見ない」という意味では同じなんですよね、「会えない」点では違いますけど…)

最近よく祖母の亡くなった日からお葬式の日の三日間のことを思い出して寂しい気分になります。
今日は何故か、亡くなった日に病院から出た時のことを思い出しました。


最近思うのは、「死ね」という言葉はすごく重たい言葉なんだなってことです
養父がすぐ死ね死ねいう人だったんで今まで言葉に全然重みを感じなかったんですけどなんか今ではあんまり口にしたくないし耳にもしたくない(できるなら目にもしたくない…)

死という言葉について、印象が強いのはやはり火葬場で扉の閉まる瞬間です

終わりました

実家でお風呂上がりです。リビングに転がって書いてます。

葬儀等今日やることは終わりました。

今日もたくさん思う事があったので書き留めておこうと思います。


今日の朝方は記事を書いてからまた仮眠を取りつつ30分おきくらいに起きて線香をしてというような感じでした。起きておくのがいいと言われるのですが流石に体力がなかったです。普段は9時間くらい寝ているのでそれもあって。それを9時半頃まで繰り返していたかな。それから起きて寝ていた部屋を掃除して着替えて、といった感じでした。

私が着替えたりなんやかんやしている間に棺の窓が閉められてしまっていて少しさみしいような気持ちになりました。

あと受付係をいきなり任されてあたふたしました。


告別式が始まって、私は母の隣に座っていました。じーっと祖母の写真を見ながらお経を聴いておりました。元気だった頃の写真を使っていたのでそこにいた祖母とは全然違いこれまた10年間の苦しみというものを考えて辛くなりました。写真は笑顔が綺麗ですごくいいものだと思います。元気だった祖母は笑うことが多かったように思うので(ニコニコというよりアハハというイメージでした)それを表すような写真です。

他には夜中にコーラをお供えしたり寒かったので即席味噌汁をお供えしたりしてたので食べてるかなぁとか考えたり。


その後いよいよ最期のお別れとなって、棺の蓋が外されました。みんなでお花を飾ってあげたり、夜書いた手紙を入れたり。他にはお願いして私の使っていたクリームチーク兼リップバームのようなものを入れてもらいました。あとはお供えしていたコーラも少量ならば、とのことで化粧品と一緒に足元に置かせて貰いました。

昨日の夜、母が祖母の口紅を塗り直してあげたいとのことで私が持っていた赤いものを貸したので、それを入れました。祖母はお洒落が好きで髪の毛はパーマで染めてたしピアスホールも5つくらいはあけてるし……(小学校の運動会に髪の毛ソバージュでつば広の帽子被って某ブランドのグラサンかけたおばあちゃんが来るの冷静に考えてウケみがある。そんな感じでお洒落な人でした)そんな人がむこうで化粧道具一つも持たないのはなんかなーと思ったし、ちょうどサブで使用していたものでもあったし、私がまた新しいものを買ってお揃いで持つのもいいかな~とか少し思ったりもしてます。

そしてその時じっくりと顔を見ました。亡くなってから40時間くらいたったでしょうか、その間に目の上の骨ばった感じが強くなって、口も少しずつ開いていってしまっていた祖母。最初見た時は本当に死んでいるのかと疑うようであったのですがやはり亡くなってしまったのだと思い大泣きしました。


さよならをして蓋をみんなで閉め、火葬場へと向かいました。そうしてまた拝んでいただき、その時に棺の窓から本当に最後にお顔を見ても良いとのことで焼香後に見に行きました。向こうで化粧してなぁと声をかけて、お別れにしました。

その後は向こうの方の手で窯に入れられていく様子を見ました。扉が閉まってしまいました。またわたしは大声を上げて泣きました。19歳なので以下略。泣き声うるさいガールじゃ~。

あの瞬間二度と経験したくないですね。生きていく上でこれから何度も大事な人のその場面を見届けなければならないことはわかるのですが。

グズグズしながら待合室に歩いていくとやはり母にも「生きとった方が辛いんだからお疲れ様って思ってあげんと」と言われました。


待合室で妹やいとこたちと少しお菓子を食べました。来たる拾骨のことを考えていました。確か7歳か8歳の時に実父の骨を拾った覚えがありとても怖いイメージで心臓がドキドキしていました。祖母が骨になることを想像できませんでした。一時間と少しした時アナウンスで呼ばれました。


つい先程まで身体として実体があったひとが変わり果てていたのには驚きましたが、それまで抱いていた恐怖などは薄れ祖母の骨を拾ってあげようという気持ちになりました。でもやはり少し手は震えていたような気がします。あとは10年間床に伏せていたのもあり骨が残るのかという懸念?不安?もありましたが大丈夫だったと思います(基準がわからない)棺に収めた化粧品やコーラや手紙、お花たちは祖母が綺麗に持っていってくれました。

コーラ少なくするために母とおばと私で回し飲みしたとき「なんでぇ!アタシの分すくねえがな!!」とか言ってるやろワラみたいな話をしてて、それを少し思い出しました

25日、26日と雨が降っていた(26日は朝土砂降り)のですが祖母が空に上っていったちょうどその頃雨が上がっていました。なんだかすごいものを感じました。


その後おばといとこたちは車の関係で先に帰り、私と母と妹は祖母の遺骨や位牌と一緒に迎えを待ちました。迎えが遅くて母がイライラしていました。私はその時タイムラインのオタクに喧嘩を売っていました(オタクすまんな!)


遺骨を拝んでもらい、その後母の友人(昨日のスナックの人です)が作ってくださったお弁当を配って解散になりました。

四十九日までお供えする?料理をいただいたのですがそれを見た妹が「こんなんばあちゃん食べんじゃろもっとガッツリ食べさしてあげりゃええのに」と言ったので「10年間断食しょったけ49日は回復食じゃ~」と返しました。(10年間断食なら10年回復しろみたいなクソリプはええんで)


祖母はほんとに大酒飲みの大食らいだったんで向こうでは沢山飲んで食べてくれるといいと思います。

私の名は。

おはようございます。叔母の目覚ましアラームに設定されている西野カナさんの「トリセツ」を聞きながら書いてます。


昨夜、通夜のあと母と叔母、店の近所のスナックのママ(母の親友のような存在です……)とお客さんがしばらくお酒を飲みながらさわいでいました。

かたや妹といとこたちがわちゃわちゃと。そのすみでわたしは昨日の記事を書いたわけなのですが。

大人の話にも入れてもらえず子供の話にも入れない微妙な年齢なのだと思いました。

来てくださった方も明日のことがあるのでとお帰りになられ、親族だけとなっても、わたしは自分勝手に控え室で転がって筋トレをしてみたり祖母の顔を見て話しかけたり話には入らずでした。


日が変わり、3時ごろでしょうか。祖母に手紙を書こう、という流れになりました。私は実父が亡くなった時(当時8歳でした)も同じようなことをしているのですが、一度ペンを持つとわりと自分勝手に筆を勧めてしまうタイプで、祖母があちらで手紙を読んだ時混乱しないかなあと今になって思います。


手紙の内容は簡単に、2年間、というよりは10年間通してあまり見舞いにいかなかったことの謝罪、祖母との思い出、特に食べるということについて、大学に入ってからの近況報告等です。結局5枚くらい書いたかな。詳しくは私とばあちゃんの秘密だよ。

封筒には祖母の似顔絵を描いて周りにコーラとケーキと肉の絵を書きました。

祖母は元気だったころよく食べる人で、どんだけ食べるかというと朝からステーキを食べたり二日酔いの時に焼肉に行ったりするような人でした。味の濃いこってりしたものと甘いものが好きでした。だから元気だった頃は結構上半身デ……ガタイのいいおばさん?お姉さん?でした。おばあちゃんという言葉の似合わない人でした。(実は私自身飲み屋コミュニケーションの中で育ったので、50代の若々しい女性をおばさんともおばあちゃんとも表現し難いところがあります)


さて。

私の名前は樹里といいます。大学の友人にじゅりちとあだ名をつけてもらい、ハンドルネームにも使用しているのでほとんどの人にじゅりち、と呼ばれていて、私の本名はわりとみんなに親しみを持ってもらえているのではないかと思います。

また、かわいい名前だ、とお褒めの言葉をいただくことも少なくありません。とても光栄です。

実はこの名前、祖母からのプレゼントなのです。私の名付け親は祖母です。素敵なプレゼントをいただいたものだと思います。

名前について思うことはあるのですがそれは今はここでは内緒にさせていただきます。いずれ言うかもしれないけど。


この名前には祖母の考えが宿っています。

「人は二度死ぬ」という言葉をご存知ですか。1度目は肉体の死。2度目は他人の記憶から消える時。

私の名は祖母の一部を含んでいる?いただいている?ものですから、私の2度目の死と祖母のそれはもしかすると一致するのではないかなぁとふと思いました。


1時間ほど仮眠をとったのですがまだ眠いです。

10年間

いろいろ思うことがあって、でも心の中にとどめておくと忘れそうで、吐き出したくて、でも80人の前にぽっと書くことでもなくてひとりに対して話すにしては重たすぎる気がするから、ブログに書いたら気になる人しか見にこないしいいかなーと思ったのでブログに書きます。



私は今葬儀場にいます。


祖母が亡くなりました。24日の午後3時でした。ちょうどその時私は岡山市にいました。母から危篤だと電話を受けたのですが実はその時間にはもう亡くなっていたことになります。


電車の中で座って落ち着いて一息ついたその時涙がこぼれたのをきっかけにしゃくりあげてしまいしばらく止まらなくて周りの乗客には迷惑をかけました……。(もう19だし、そういう泣き方は直さなくてはいけないと思う)

児島駅からはタクシーで病院に向かいました。ちょうど病院についた時原付を降りる母がいたので合流。今来たのかと聞くと「ばあちゃんの新しいパジャマを買いに行っていた」と。母はもう既に一度病院に来た後でした。最期に間に合わなかったと泣いていました。少しタバコを吸うからという母を残してパジャマを持って病室に向かいました。

病室では看護婦さんたちが祖母に処置を施していて、妹が壁にもたれ下を向いていました。祖母の細い太股が見えて私はまた泣きました。看護婦さんにパジャマを渡して、着替えさせるというので病室の外に出ました。

ちょうどその時母が上がってきて、妹を連れて下に降りました。私はまたひとりになったのでとりあえずトイレに行きました(我慢してた)

パジャマを着せ終わったとのことでまた病室に入りました。祖母とふたりきりです。自分にとってはいきなりの死、「ホントに?」という気持ちもありましたが、その体の冷たさに驚きました。そうしてまた、その体の細さにも驚きました。


話は10年前、私が9歳の時に戻りますが、スナックを営業していた祖母はいきなり脳卒中で倒れました。出血の詳しい位置などは覚えてないし専門知識もないためよくわかりません。それに加え私はまだ幼かったので詳しい話もほとんど聞いていません。

「ヤマを超えても一生植物人間」と言われていたのは覚えていますが、その言葉とは異なる結果になりました。右半身不随に加え喋れない食べられない、という状態ではありますが意識はあり笑ったり話を理解したりするところまでは回復し、母も一生懸命テレビを見せたり麻痺しているところのマッサージをしたり車椅子に乗せて病院を散歩させたり筆談をしようとしたり50音表を用いてのコミュニケーションを試したりしたのですが

ある日母が筆談を試みたときに死にたいと書いてからはそれもやめてしまいました。

それからの祖母はテレビを見ることもなくなり外も見たがらず、ベッドの上のみで過ごすようになりました。

祖母が倒れる前、まだ元気だった頃、私はかなり祖母が好きで、新しい父が怖かったことや夫婦喧嘩が怖かったことなどもあり毎週日曜は祖母宅に泊まるなどしていた記憶があります。また、私が生まれたばかりの頃などはもっと長い間一緒にいてたくさん可愛がって貰ったようです。

そんな元気で強いイメージの祖母からは変わってしまった祖母がどうしてもなんとなく怖くて、私は御見舞にはあまり行きたがりませんでした。ちなみに母にはあれだけかわいがってもらったのに薄情な孫だと言われました。

しかし私が高校3年の時、祖母は一度肺炎で危なくなり、その時は1週間くらい毎日病院に御見舞に行きました。学校にいるあいだも居なくなってしまうのでは、と思い怖くて授業を抜けて保健室にいたりもしました。

その後祖母は回復し命の危険はなくなり、それから私が大学に合格してその報告をしに行った後、また病院から足は遠のいてしまい、それを最後に御見舞に行くことはありませんでした。後悔しても遅いとはこのことだと思いました。まさか死ぬなんて、と思いました。


話は病室に戻ります。

ふとわたしは祖母のベッドを軽く揺らしました。反応せんかなぁという気持ちでした。しかしながらまあそんな事はなく、なんといえばいいのか、何の抵抗もなくされるがままに祖母は揺れるのです。当たり前ですがそれがどうしても辛くてまた泣きました。

その頃に妹が帰ってきて、しばらく沈黙でしたが私が「いきなりだったな」と話しかけると妹は悟ったように「まぁこの前ママが延命治療の話をしてたし今まで生かされとったんよ、お疲れ様よ」と言いました。

思い出してみれば酔った母が「もうばあちゃんがやばくなっても延命治療をしないと署名した」のようなことを言っていました。それにしても早いなあと思いましたが。

そうしてその時看護婦さんが病室に来て、私に封筒を渡しました。死亡診断書だというので妹と読みました、死因は急性肺炎、発病後約50日とのことでした。最期は咳き込むなど苦しむ様子はなく眠るように逝ったそうです。


その後叔母とその子、祖父が来てくれましたが、みんなやはり妹と同じことをいうのです。10年間苦しんだのだからお疲れ様だ、と。

確かにそうですし、10年間人としての尊厳とかそういう観点からすると叔母いわくプライドのかなり高い祖母ですし本当に死にたいの毎日だったのかも知れません。お疲れ様です。


祖母の話は最近になって母からたまに聞きますが幼少時も割と辛い時間を送ったそうですし成人してからもいろいろと大変だったようです。祖母の人生はどんなものだったのか、どう思いながら過ごしてきたのか、私には知ることができません。

まあなんといえばいいかわかりませんが辛かったぶん向こうでは楽しく過ごしてくれたらと思います。


またこれからも思うことが沢山あると思うのでその都度ブログを書こうと思います。

文句はないといいつつ文句しか言わない

こんばんは。じゅりちです。

 

こんなことしてないで国際法の答案を準備しろっつう話なんですけどね。

いやあ行き詰りすぎてこっちに逃げてきました。

普段わりと国際法に関しては結構自分でも頑張って受けてるんですけどこうやっていざ答案つくるぞってなったらキツイっすね。。。

講義をしっかり受けることってなんの自慢にもならないのかなーって思います。(悔しいけど法学部では特にそんな気がする。出席とらないし)

60×2とかいう授業形態は個人的には前より集中できていいんですけどテストが多いのはカンベンです。

 

さて。

最近ダイエットを始めました。人生n度目の。

妹が3月からくらべて5キロやせた?とかでめっちゃ煽られます。

普通体型だったはずの高校時代はどこいったんでしょうね?

 

 

以上、テストとダイエットにちょっとつらたまなじゅりちでした。

 

追伸 自分で自分のことじゅりちっていうのなんかちょっと恥ずかしいよね(岡山県在住の学生 19歳 女性)

ブログ始めるやつやる。

はじめまして?

じゅりちです。

クッソ暇だったんでブログはじめることにしました。ウェイ


ブログとか何年ぶりやろ。中学生の頃に作っては1週間で存在を忘れるみたいなアホ臭いことを繰り返していた覚えがあります。

当時使ってたフォレ〇トブログとかいうイカしたサービスがもうやってない?っぽいんではてなブログさんをお借りすることにしました。

あと日記つったら〇バゲーか?


まあこれからちまちまーっと書いていけたらええなぁと思います。読んでやってください。


思ったけどクッソ暇なのにブログ始めても書くことねぇんじゃね??ヮラ